コンノアツシ@お味噌フィルハーモニーのゴチャゴチャ雑多煮

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I Feei,I Will

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11年前、仙台市青葉区愛子(あやし)に住んでいたボクは、太白区南仙台にある老人保健施設に出勤する為、軽自動車に乗っていました。これから夜勤に向かおうという道中、けたたましい緊急地震速報とともに尋常じゃない揺れを体感します。辺りの車も全て停止し、ラジオを聴いていたボクもいったん車を停車して、ドアを開けて地面にしゃがみ込むような低い姿勢をとりました。電柱が倒れると思うくらいにグラングランと揺れていたので、車のドアを開けてその下にしゃがみ込んでいれば、万が一倒れてきても、身は守れるだろうと思ったからです。

とりあえず最初の揺れがおさまったので、あと1㎞くらい先にある職場へと急ぎました。残りの道のりの間に国道をまたぐ大きい交差点が一つあって、その交差点は当然のように信号が止まっているので、全方向から進んでくる車両の運転手達が、互いに譲り合いながら、慎重に交差点を進んでいたのを覚えています。中には混乱して交差点内で事故が起きたり、その後の交通網に影響が及んだりしていたようですね。今考えると、あの道路には優しい人達が多く往来していて、秩序があったことが素晴らしいことだったな…と思います。

地域の病院も併設していて、全国的に展開しているような法人の施設だったので、緊急電源やインフラ整備などの有事の際の環境も、ある程度は充実していました。なので、停電してもT Vは見られる環境にありました。どうやら津波警報が出ていて、どの規模の津波が来るか分からないけど、今自分が居る施設も避難区域内に指定されているらしいという情報が飛び込んできました。それからすぐに全入居者と全職員の安全確認をしたのち、何人かを男性職員総出で抱えて、下の階から上の階へと避難させました。E Vも止まっていましたからね…。食事とかもどうやって用意したのか?覚えていませんが、食堂に全員集めて雑魚寝のような形を取ったのは覚えています。何かが起こってしまった時に、再び各部屋から避難させるのが難しいから、一箇所に集まってもらったんだと思います。息つく間もなく、閖上地区が津波に流されていく映像がT Vで流れます。液晶を見ながら視界がグラッと揺れたのを覚えています。本当?なにこれ?って…。

施設がある地域は、その時に流されている地域に自宅がある入居者さんもたくさんいました。いつもレクリエーションを進んで参加してくれる賑やかしが上手な陽気なおじいちゃんも、その地域で生まれ育った方で、ずっと涙目で眼をうるませていたのが脳裏にこびりついています。その人のA D Lも名前も、T Vを見て涙ぐむ姿も、11年の月日が流れても覚えています。そのおじいちゃんは、3.11がきっかけで気力が消失し、みるみる身体が弱っていきました。

仕事がひと段落したんだっけかな?落ち着いてもなかったけど、上司に「いったん休んできて」って言われた気がする。通常の夜勤よりは遅めの夜休憩に入り、そこでようやく家族や友達、同棲していた彼女の心配に心が移ります。当時は彼女のことが全てだったので、どうしてるんだろう?と心底心配しました。連絡もつながりにくい中で、身内は全員無事だということを知って、胸をそっと撫で下ろしたのも覚えています。

夜勤明けで普通に帰宅して、もう仕事に行きたくなくなりました。この世の終わりのような何かが起きてしまうかもしれない状態で、大事な人と離れたくないと考えていました。ガソリンの供給が滞っていたのもありました。職場から連絡が届いても、車通勤で40〜50分かかる通勤路を、給油できないのを原因に出勤が難しいと伝えていました。今考えると、なんて無責任なんだ!と憤りを感じる対応だったと思います。でも、その時は彼女が全てでした。

結局、震災から3日くらい経った時でしたかね?自転車で雨が降る中、2時間とかかけて出勤したんです。職場の先輩にも上司にも「よくきたね」「ありがとう」と感謝の言葉をもらいましたが、他の方々からは「無断欠勤しといて、なんなんだコイツ?」と思われていたかもしれません。車はないので、通勤をしないつもりで出勤したんです。そこから、1ヶ月〜2ヶ月間くらいかな?ガソリンが落ち着くまでは、施設で寝泊まりしました。家に帰られないのも中々の地獄でした。洗濯機も風呂も入居者さんと同じものを使わせてもらいました。禁欲生活だったので、寝ながら腰をふってた時もあった気がします。気を遣って誰からも言われませんでしたが、それを見られていた気もします。嫌な記憶です。本当に地獄のような日々でした。

インフラも整って、自宅にやっとの思いで帰った時、泣いたっけかな?そこは覚えてないや。でも、その大変だった日々のことを思い返すと、やっぱり胸がキューッと締めつけられますね。全てが不自由だった。でも優しかった。全然知らない人と協力的に情報交換するのが普通になってた。

セリ農家さんがセリを分けてくれて、それで施設長が味噌汁を作ってくれて、支援物資の米を炊いて夕食にした。わざわざ炊き出しをしている所に夜休憩をとりに行くのが習慣になっていたから、ある夜勤中に「何かあった時に夜勤の相方が同じ階にいないのは困ります」って、注意されたのを覚えている。しんどっ。思い出したくないわ。

教訓はあるけど、2度と戻りたくない。あぁだこうだ言われていた自分が未熟すぎて、いたらない部分が多すぎることに虫唾がはしる。今のボクが、当時の現場にいたら…。

負の感情も嫌な記憶も戻れない過去も、全てを抱いて前進する。

いつにも増して文章がまとまってないのは、ごめんなさい。自覚してます。

 

地球の上に住んでる限りは、災害に見舞われることは必然。日本がプレートに覆われていて、地震大国なのはもちろんのこと、津波や大雨の恐怖にさらされているのと同様に、大陸ではハリケーンや干ばつで悩まされている人々もいる。そんな中、人間同士が争い合う理由って、なんなんだろうね?わざわざ自らの手で人害をもたらす意味って、なんなんだろうね?戦争をやめてほしいよ。NO WAR。

 

 

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